オーラルヒストリー日本統治期朝鮮半島に居住した日本人
韓国オーラルヒストリ-調査 インタビュー 7/2/2005
1.井上 博氏
(1)19C末~20C末の写真公開
・ 朝鮮の農村の写真(牛を用いた農耕風景など)
・ 市場の風景
・ 綿工の写真(衣服を製造する過程の映像など)
・ 金の採掘
・ ハンガン(ソウル最大の川)の映像
・ 1930~1940のソウルの映像
・ 朝鮮時代の王の住居
・ 朝鮮時代の王の住居を取り壊し,総督府を建設している様子
・ 裁判風景(ソデム刑務所の映像)
・ 桂城市庁(現在のソウル市庁)
・ 1919の3・1運動の映像(韓国の民衆運動, 朝鮮の国王が死去し,葬儀の際に起こった)
・ 第二次世界大戦の際に家庭用品を集めている映像
・ 植民地時代に中央銀行の役割をした銀行の映像(現在の韓国銀行)
これらの写真は,現存しているものもあれば現在は無いものもある。韓国で起こった戦争のために現存していないものも多い。総督府は長らく残っていたが、1966年に取り壊された。
(2)井上さんの写真に対するコメント
これだけの写真を集めることが出来たことは素晴らしいし、非常に懐かしく感じた。3・1独立運動は生まれる前の出来事であったが、この運動は韓国の原点ではなかったかと考えている。農村の映像や市場の写真など、昔の韓国の人々の写真は、自身が韓国に生まれたにも関わらず非常に懐かしい。生まれ育ったのは写真で紹介された時代よりももっと後年の時代であるが、農業技術は写真の当時よりもさらに進んでいたことは覚えておいてほしい。同じ時代の日本の生活はどのようなものであったのか、非常に関心を抱いているので、学生の皆さんには是非比較しながら調査していただきたい。1945年、韓国から帰ってきたが、農村での農耕技術は当時日本よりも韓国のほうが進んでいたのではないのか、というのが帰国してから実感したことである。
(3)日韓の学生による質問と井上さんの応答
日本学生1:衣服を作っていた写真が紹介されていたが、どのような衣服であったのか?
井上さん:都会用の衣服であろうと思われるので、農村で生まれ育った自分には分からない。しかし、写真の中でも紹介されていた機織機は自分の村にも2,3機あった。
新城さん:当時はどのような衣服を着ていたのか?
井上さん:小学校は日本人だけ(しかし、1割は韓国人)だった。しかし、韓国の学生達も日本人と同じような格好をしていた。韓服を着ていた人は少なかった。
韓国学生1:井上さんからのお話を聞く機会を設けていただき非常に嬉しい。どうして韓国に移り住むことになったのか、その経緯を教えてほしい。
井上さん:まず、日本政府の指針とはいえ、韓国の皆様には非常に悪いことをしたと思っていることをお伝えしたい。あらかた推測であるが、祖父が明治末期に韓国に移住したと思われる。祖父が日本にいるときに、細川さんと懇意にしており、細川さんの軍隊と一緒に連れ立っていったのではないか。細川さんが祖父の農村に訪れ、その際に軍員として軍隊に加わり韓国へいったのではないかと考えている。大場村に日本人集落があり、そこには郵便局や神社、警察、畳屋さんなどが一そろい揃っていた。細川農場の従業員などが住んでいた。他には今村農場の人々もいた。日本から、それらの一そろいの社会集団がそのまま韓国に移動したのではないだろうか。
韓国学生2:追加的な質問だから、祖父が韓国に移動した際、家族は全員付いて行ったのか?
井上さん:日本での土地や家などを処分し、一家全員で移動した。父も母も熊本や茨城など出身は異なる。日本全国から韓国へ移動した人たちが集まり、その中で生まれたのが私である。
日本学生2:1945年の日本と韓国の農業では韓国のほうが進んでいたというお話だが、農具などに違いはあったのか。詳しく教えていただきたい。
井上さん:技術はそんなに差は無かった。農地を整理する(耕地整理)技術は韓国のほうが進んでいた。水利関係が韓国は綺麗に整理されていたが、日本の方が耕地整理が為されていない分、ごちゃごちゃしていて複雑だった。
韓国学生3:小さい頃にどのような遊びをしたのか。当時の朝鮮人の子供達とはどのように遊んだのか。
井上さん:部落の中にたった3軒しか日本人世帯しかなく、同世代の日本人の子供がいなかったため、韓国の子供さん達と共に遊び、学んだ。ノルテギや竹馬、凧揚げなどをした。韓国の凧にはガラスが紐についており(手が切れて危ない!)、それをめぐってよく韓国の子たちと喧嘩した。最も楽しかったのは、皆でサッカーをしたことである。韓国がサッカーに強いのは、子供の頃から遊びながらやっているからではないだろうか。テニスなどもした。小学校に入学したのは7歳だったが、女の先生が井上さんと呼んでくださったときに、「ネエ」と返事して皆に笑われた。(普通の日本人の子供は「はい」と言うから)。同窓会のときはいつもこのネタでからかわれる。
日本学生3:日本人ばかりの大場村からほとんど朝鮮人で構成された海田里に移住したとき、初めて見るものや、目新しいものはあったか?
井上さん:4歳のときに移動したため、比較が出来ない。但し、大場村にはあった電気が、田舎であったため無かった。
韓国学生4:写真の中に市場の写真があったが、井上さんが懐かしいとおっしゃるのはなぜであろうか。子供のときはしょっちゅういっていたのか?誰と行っていたのか?また当時欲しかったものなどはあったか?
井上さん:あまり市場には行っていないが、行くときは必ず親と一緒に行っていた。散髪に行くときに時々連れて行ってもらった。物の多さと、素晴らしい人がたくさんいたというのが記憶に残っている。欲しいものがあってねだったときは、大体親に叱られた。ソウルの市場やモッポの市場などに行った。
韓国学生5:昔の朝鮮の農村社会では、農業を共同で行うという風習があったが、井上さんも一緒に農耕をしたのか?
井上さん:自分の農場には、監督その他、全ての経理を任せている韓国の方がいた。田植えにはよく行った。水車は日本のものよりも韓国の方が良いものだった。水車に転びながらも乗り、水運びを手伝った。何度か稲刈りも手伝った。
日本学生4:村ではどのような祭が行われていたのか?
井上さん:住んでいた海田里には、特別祭りはなかったが、旧正月には能楽(ケケンケンケン、という感じのリズム)があり、それが一番楽しかった。能楽隊の後を付いてまわり、親に叱られた。子供の頃に覚えた能楽のリズムは今でも忘れられない。
韓国学生6:祭について質問したい。大場村に移住した人たちには熊本の方々が多かったと聞いたが、熊本や日本独特の祭などを現地で開催したりしたことはなかったのか?
井上さん:だいたい神社でそれらの祭を行った。年に春と秋の二回で、春は神社で神主さんが祝詞をあげた。秋は子供たちが相撲大会を行ったが、自分は体が小さかったためにあまり好きではなかった。代わりに小学校で行われる運動会でのかけっこは好きだった。
韓国学生7:3・1運動について韓国の原点とおっしゃったが、当時朝鮮に住ながらその現状についてどう思われていたのか?また運動を目撃したことはあったか?日本の情勢についてはどうやって知っていたのか。
井上さん:3・1運動については、日本に帰国してから学んだ。この運動は自分が生まれる前のものだが、これらの運動について、両親がちらほら話していたのを聞いたことがある。3・1運動についての本を読み、韓国の人々が当時何を考え、どういう信念を持って3・1運動を行ったのかを知り、私はこの運動は韓国の原点ではなかったのかと考えている。ただし、表現が間違っているかもしれない。
韓国学生8:1945年に引き揚げられたという話であるが、そのときの韓国の情勢はどのようなものであったか。また帰国(引き揚げたあとの日本)はどのような状態であったか?
井上さん:終戦はウルサンで迎えたが、帰ってから約2ヶ月間海田里にいた。村には若者が誰もいなかったため、青年団長として村をまとめた。様々な話があるが、私達は帰国するまで韓国人から迫害を受けたり、いじめを受けたことはない。むしろ米をもらったり様々な援助さえ受けた。日本に帰ると、本地の日本人から「半島人」と言われ、非常に悲しく思った。
韓国学生9:井上さんは韓国の全羅北道というところにおられたが、その地出身の有名な人を誰かご存知か?また高麗大学の前身である学校を作った創立者も全羅北道出身であるが、その人について何かご存知か?
井上さん:人物は知らない。同級生がよく知っている。
日本人学生5:自分は在日コリアン3世だが、井上さんは日本人として韓国に住んでおられ、自分がなぜこの地にいるのかと自問自答したことがたくさんあったと推測する。何歳ごろからそれを自分自身納得できるようになったのか。自分の韓国に住む日本人としてアイデンティティーを確立したのはいつごろか。
井上さん:韓国に住んでいるときは、そのようなことを悩んだことはなかった。帰国してから「自分は韓国に住んでいたのだ」と強く実感した。引き揚げるときは、なぜ日本に帰る必要があるのか、全く理解できなかった。おそらく韓国併合の歴史や、日韓の関係について全く知らなかったから、そのように感じたのだろう。
韓国学生10:韓国の近代史についての本を翻訳されたと聞いたが、どのような本か詳しく知りたい。
井上さん:近代史についての本ではない。当時の朝鮮の部落や当時の日本人が行ったこと、水利について、また今の光景と昔の光景との比較などについて取り上げられた本である。関係はないが、北朝鮮が攻めてきたときの実態、3・1独立運動についても書いてあった。翻訳するにあたって、非常に勉強になった。「コウケイ史(?)」という本である。
※注意すべきこと(井上さんの追加コメント)
自分は韓国の人たちと仲良く生活してきたため、自分が知らなかった当時の事実もたくさんあるだろうと思われる。韓国の方々がつらい想いをしていたのは確かであったかもしれないが、それは当時の自分は実感していなかった。日本に帰ってきてその頃の朝鮮の情勢について勉強し、今、新たに感じることがたくさんある。
韓国オーラルヒストリー調査 インタビュー 7/2/2005
2.笹栗邦子氏
(1)19C末~20C末の写真公開(主に日本統治期の都市)
・ 日本人が主に住んでいたミョンドン(ソウルにある)
・ 南大門(城壁で昔は囲まれていたが、今はもう無い)
・ 桂城の風景(朝鮮の王が昔住んでいた住居など)
・ キョンボック(日本の総督府を作るための工事現場など)
・ 朝鮮総督府
・ 桂城市庁(現在のソウル市庁)
・ 朝鮮銀行本館(現在の韓国銀行)
・ ソウルで開催された博覧会のポスター
・ 桂城駅の構築現場(現在のソウル駅)
・ ミョンドンのカトリック聖堂
・ 刑事が犯人を調査する場面
・ ソデムン刑務所(ソウルにある。今は博物館として残っている)
・ 3・1独立運動の様子
・ 朝鮮国王葬儀の様子
・ ソウル・ナムサンの神宮の写真(現在は残っていない)
・ 朝鮮で発行された新聞
・ 冬にソウルのハンガンで行われたスポーツの様子(スケートなど)
・ ソウルの交通の様子
・ 朝鮮の学校の様子
※ これらの写真が当時の朝鮮の全てを現しているわけではなく、一部分に過ぎない。整理されたビルや交通状況を見て、当時の朝鮮が発展していたとは言い切れない。しかし、これらは当時の状況を振り返り、学んでいくのに少なからず役立つはずである。
2.笹栗さんの写真に対するコメント(自身が持参したものも含めて)
写真を見て、全ての出来事をばらばらに起こった出来事と感じるかもしれないが、自分は一つの写真から様々なことを思い出すため、写真がどんどん広がっていくように感じる。
3.日韓の学生による質問と笹栗さんの応答
韓国学生1:写真はソウルのものばかりであったが、笹栗さんは木浦や清州などにも住まわれた経験がある。それらの地でどのような生活を送っておられたのか教えていただきたい。
笹栗さん:学校などを転々としており、また寮に入っていたため、その土地土地の生活についてはあまり記憶に無い。父母は写真が好きだったため、当時の写真はたくさん残っている。正月には必ず写真を撮るのが習慣だった。
韓国学生2:最初にご両親が韓国に行かれたのはいつだったのか。また兄弟関係について教えていただきたい。
笹栗さん:1985年ぐらいの時に韓国に移動した。兄弟は三人で、上の姉とは五歳の差がある。父は芥川龍之介と高校の同期で、父も岡山では有名だった。父は朝鮮に移住した後、裁判官となった。名誉欲などがあまり無く、テニスや野球を好み、日本人とも韓国人とも交流することを楽しんだ人だった。現在のカフェのような場所で打ち上げをする際、父が友人達とどんちゃん騒ぎをしていたことが記憶に残っている。
日本学生1:若松小学校にいたときは、韓国の子供達と遊んだりしたか?
笹栗さん:朝鮮では小学校は尋常小学校と普通小学校に分かれており、日本人は尋常小学校へ、朝鮮人は普通小学校へ行った。そのため小学校にはほとんど朝鮮人がおらず(いても2~3人程度)、また高校は女学校であったため、朝鮮の子供や朝鮮人と接する機会はあまりなかった。ただ家のお手伝いさんが朝鮮人で、その方には大変可愛がってもらった。雹が降ってきた時に自分をおんぶして連れ帰ってくれたことをよく覚えている。尋常小学校を出ると、男子はほとんど農林学校に行った。そこは日本人も朝鮮人も通える学校であった。しかし、近くにはテグにしか女学校は無かった。
韓国学生3:朝鮮で小学校から高校まで勉強され、その後日本に帰った後に日本の大学に通われたということだが、大学に入学する際、知識の格差などは感じなかったのか?またお父さんが裁判官として活躍なさっていた間、帰国したいと思ったことは一度も無かったのか?
笹栗さん:当時朝鮮で教育を受けていたときは、自分達は文部省管轄の下、内地と同様のシステムで教育を受けていると思っていたが、むしろ海外の日本人学校のような扱いであったと後で知った。しかし朝鮮と日本では、教育内容はほとんど変わらなかったと思われる。日本の大学を受験したときは、テグの女学校で学んだ内容で十分間に合った。父は朝鮮での生活を心から楽しんでいた。終戦後、女子は危険だからと自分達女の子供だけを日本に帰らせようとした父に、「むしろ日本の方が情勢が安定しておらず危険だから、朝鮮に残った方が良い」と引き止めてくれた朝鮮人もいたくらい、現地の人とも仲良くしていた。
新城さん:お手伝いさんの話があったが、食事は誰が作ってくれていたのか。またどのようなものを食べていたのか?
笹栗さん:母は主婦であったので料理をよく作ってくれた。カレーライスを今よりももっと原始的な作り方で料理してくれた。お手伝いさんは日本料理を時々作ってくれた。父は美食家であったため、料理が足りなくなるとすぐに中華料理を注文した。ピョンヤンの料理はとても美味しかった。韓国の冷麺なども食べたが、日ごろは日本食を食べていた。父は物心ついたときからテニスをしており、母も一緒にしていた。ピョンヤンにいたときは、医者である金先生と懇意にしており、アメリカ人の宣教師に丸いチューインガムを貰ったときは、金先生に「お父さんが負けているよ!応援しなさい」と注意された。そのくらい、父は皆と仲良く接していた。
韓国学生4:夏休みや冬休みはなにをしていたのか?また部活動はどのようなものであったか?
笹栗さん:小学校では部活動は無かった。テグの女学校では、スケートやテニスなどがクラブとしてあった。バレーのクラブなどもあり、よく応援していたが自分では何もしていない。自分は走るのも遅く、あまり動くのが好きではなかった。三日坊主タイプで何をしても続かず、オルガンなども習ったが、直ぐに止めた。本が好きで父が買い与えてくれた文学全集などを読み漁っていた。
韓国学生5:学校では何か朝鮮人の学校とは異なることを学んでいたのか?科目はどのようなものであったか?
笹栗さん:朝鮮学校は遠く、また自分は寮に入っていたため遠出をしなかったため、朝鮮人の学校との交流が無かった。そのため教育内容を比較することはできない。科目は、国語・英語・修身・裁縫・理科(化学)など、日本の学校と変わらないことを学んだ。テグの女学校はレベルが高く、入学の競争率も高かった。(一番レベルの高い女学校はソウルにある)ゆかたの早縫いなどもあり、早い人は一時間くらいで縫い上げたが、自分は家庭科が苦手であまり上手に出来なかった。
韓国学生6:運動会の様子などについて詳しく教えていただきたい。
笹栗さん:ピョンヤンの小学校は1200人ほどいて、運動会は盛大に行われた。先生方が様々な楽器を用いて音楽を演奏してくださった。走るのは苦手だったが、ダンスなどはとても楽しかった。生徒と密着した先生方が多くおられた。ある先生に可愛がられてよく授業中に指されたが、朝鮮語が出来ないため嫌だったのを覚えている。
韓国学生7:終戦直後の朝鮮の様子はどのようなものであったのか?
笹栗さん:自分は木浦で終戦を迎えた。玉音放送で天皇の演説を聞いたが、音がとぎれとぎれでよく聞こえなかった。しかし父は泣き出してしまった。しばらくは日本に帰れないと思っていたが、100トンの船で日本に帰るという話を聞き、頼み込んで女三人兄弟だけ先に帰ることになった。父は責任者になっており帰れず、事務の手続きが残っていたので父母は木浦に残った。朝鮮から日本に送った荷物は全て届かなかった。悪徳業者に法律などの書物は全部取られてしまった。官舎によく遊びにきていた海軍の人に貰った乾パンだけを食料として持ち込み、革鞄二つを持って船に乗り込んだ。三人姉妹でくっつき、寄り添って寝た。他の人はあらゆるものを持ち込んでおり、中にはたらいまで持ってきている人もいた。15日間漂流し、若松に到着した。船が小さく、トイレも無かったため、船の縁に用を足す場所が設けられたが、年頃の娘だったため同じ年頃の子達と協力して、隠しあった。炊事場はそのトイレの裏にあった。逃亡兵が米を持っていたので、それを海の水で炊いて皆は食事をとっていたが、自分は始めの頃、衛生上のことを考えると食べることができなかった。しかし15日間の間に徐々に食べるようになった。それでもトイレを我慢することが多かったため、15日後若松に到着した時は40度の高熱を出していた。その後、日本に帰国し、福岡で音楽をしていた叔父の家に身をよせた。福岡は当時、焼け野原の状態だった。中州の三井住友銀行に逃げ込んだ人々は、蒸し焼けになって死んでしまった。食べ物はスイトンやうどんなどを食べた。メリケン粉を米に似せたものを食べたこともあった。今の福ビルのあたりには闇市があり、そこで靴などを買ったりした。風月は当時からあって、帰国した父がよくコーヒーを飲みに行っていた。今は当時の面影がほとんどない。
※笹栗さんの追加コメント
たくさんの思い出話があるが、一部の話しか出来ず、とても残念である。質問があればまた是非連絡して欲しい。
韓国オーラルヒストリー調査 インタビュー
反省会
韓国学生1:今まで韓国近代史を学んできて、日本人が朝鮮人を侵略してきたのだと思っていたが、日本人と朝鮮人がともに生活を営んでいた時代があったと知り、とても勉強になった。
日本学生1:井上さんのお話を聞く前は、朝鮮で生活をしていた時代はきっとつらいものであっただろうと予想していたが、実際は朝鮮人とも仲良く楽しく生活していたと聞き、とても驚いた。
韓国学生2:確かに前の二人が述べたように、個人の間において日韓の友好を図っていたことは好ましいし、そのような個人の体験を蓄積していくことは大切であるが、もっと全体として日韓関係はどのようなものであったのかを研究していく必要があるだろう。
日本学生2:現地では日本人と韓国人が仲良く生活していたという話であったが、日韓の関係については日本に帰ってから本で学んだという話もあり、現地での関係は表面的なものにすぎなかったのではないのか、と疑問に思った。
韓国学生3:引き揚げ者の方が二人くるとは知らなかったため、インタビュー相手に対する詳しい質問を準備することができず残念だった。今後はもっと念入りに準備してインタビューに望みたい。
日本学生3:中学や高校の間、社会や歴史の勉強があまり好きではなかったため、自分の中で勝手に日韓関係を想像していたが、実際にインタビューをしてみて、自分の先入観が少し変わった。また、今回の引き揚げ者の方々は、井上さんが庶民的であったのに対し、笹栗さんはまた違う生活をしておられたので、二人にインタビューできたことはよかったと思った。
※ 日本人の学生が9月に韓国に行くこともあり、これからは個人間においてもメール交換などで意見を交流することが望ましい。
※ 高麗大学の記録を九州大学に送り、九州大学の記録を高麗大学に送ることで情報を共有し、報告書を作成する。
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